
鷹山が、今の羽前の国にある米沢藩の世継ぎとなったとき、まだ17歳の少年でありました。九州の小大名である秋月家に生まれた鷹山は、自分の家よりも格が高く所領も大きな、上杉家の養子になったのでした。しかし(中略)その養子となったのは、鷹山にすれば有難迷惑なことでした。鷹山は、全国にもまれなほど重い責任を負わされる運命に出会ったからです。少年は、自分の叔母から「もの静かで、利発で、孝心厚い性格」として、米沢の大公に推挙されました。
鷹山の師細井(平洲)は、名もない身分から責任ある地位に抜擢された、学者であり高潔の士でありました。鷹山は、他の身分の高い家の子弟と異なり、その師に対し、ひたすら従順でした。立派な師の細井が、鷹山に繰り返し好んで聞かせた、ひとりの忠順な生徒の話があります。
「大藩紀州の藩主徳川頼宣は、言いつけを聞かなかったために、その師から膝をきつくつねられたことがある。そのとき出来た膝のあざを、そうっと眺めるのが常であった。「これは、尊師が私に残した警告である。これを見るたびに、自分を省みて自己と民とに誠実であるかと問う戒めとしている。しかし、残念ながら、あざは年を取るごとに色うすれ、それにしたがい私の慎みもうすれている。」英邁な藩主は、何度も、このように述べたといわれる」
年若い鷹山は、この話を聞かされるたびに涙を流しました。身分の高い家柄の子弟たちが、厳しく分け隔てて育てられ、その結果、おおむね部下に対する義務も、自分に力と富とが与えられるわけも、忘れてしまっている時代です。そんな世にあって、まことに珍しい感性の持ち主でありました。中国の聖賢の、民をいたわること、わが体の傷のごとくせよとの言葉は、鷹山の心の奥深くにまで強い印象を与えたようで、これをよくわきまえ、終生を通じて民をみる心がけとしました。
『代表的日本人』内村鑑三(p.55)より。
先日の講座で、鬼丸さんから
「細井平洲は『なぜ富貴な出の者には優秀な指導者となりにくいのか』と言っている、それはなぜだと思いますか?」
そんな問いが出されました。
ご参加者のみなさまとともに、それぞれに、なぜか?を考えながら、ふとこうも思いました。
豊かな家柄出身の人でも優秀は指導者になる人もいれば、そうではない人がいる。
その違いはなんだろう…?
いろーんな正解があるとは思います。
その中で、鷹山のような珍しい感性は、生まれながらのものもあるとは思うのですが、でもきっと、それ以上に後天的、つまり、人と出会い、学びを深める中で育まれる、育むことができることだとも思うのです。
「この話を聞かされるたびに涙を流しました」
<それは、何度も話を聞いていた、ということです。
一度聞いたから「分かった、知っている」
でもそれと「できる、実践している」のとは違うというところだと思うのです。
そしてこのような話を聞くときに、こうも思います。
「鷹山は素晴らしい藩主だ。
それに比べて今時の政治家は…」
そうやって、自分が何かを治める存在ではないとして、自分を棚上げして、周りだけを責めるのではなく、自らも振り返りたいと思うのです。
森本菜都美
